2007/08
江戸の三大医家 伊東玄朴君川 治


写真は伊東玄朴の生家
 千代田区岩本町の水天宮通りと神田一ツ橋通りの交差点にある鰻屋「ふな亀」前に「お玉が池種痘所」記念碑が建てられ、入口にはその説明の銅版が埋め込まれている。ふな亀の創業は弘化2年(1845年)であるから伊東玄朴もこの鰻を食べたことだろう。
 出世物語の第一は太閤秀吉と相場は決まっている。しかし、ここに登場する伊東玄朴は、封建制度で縛られ身分制度堅固な時代に生まれ、佐賀藩の片田舎の農家出身でありながら西洋医学を学び、佐賀藩主鍋島直正のお側医となり、後に幕府奥医師、将軍御側医にまで出世した驚くべき人物である。
 長崎街道は小倉から長崎まで通ずる重要な街道で長崎奉行や幕府の要人、大名、オランダ商館員、長崎遊学の人達が行き来した街道である。伊東玄朴が生まれた神崎村仁比山は古い街道の面影の残る神崎宿の近く、佐賀市から車で30分の所にある。萱葺き屋根の伊東玄朴の生家は保存されており、近くには清流に水車が回る美しい風景の所だ。
 伊東玄朴はこの片田舎の農家執行家に生まれた。玄朴は農家の生まれでは出世できないと知り、母方の親戚で佐賀藩士伊東祐章の養子となって漢学を学び、隣村の漢方医古川左庵に医学を学んだ。佐賀で蘭方医島本良順に蘭学を学び、その後長崎に出てオランダ通詞猪俣伝次右衛門に蘭学を学びながらシーボルトの鳴滝塾に通ってオランダ医学を修得した。シーボルトの江戸参府に従って江戸に上る通詞猪俣伝次右衛門にしたがって玄朴も江戸に出た。
 ところが不幸にして師の猪俣伝次右衛門が途中で病気になって亡くなってしまったため、幕府天文方で蘭学を講じながら医師開業をした。名医の評判が高く佐賀藩主鍋島直正公の知る所となり、召されて藩主御側医で一代藩士となった。
 鍋島直正は蘭学に理解のある大名として知られており、江戸の蘭学者たちとの交流も盛んになった。伊東玄朴の建言により鍋島直正はオランダ商館長に痘苗輸入を依頼し、商館医モーニケはバタビアから痘苗を運ぶことに成功した。1849年7月に長崎に着いた痘苗は佐賀で8月より種痘が開始され、その年の11月11日に江戸の伊東玄朴の元に届けられた。
 伊東玄朴は安政5年(1858)に幕府奥医師となるが、蘭方医が活躍しだすと落着かないのは漢方医で、こちら幕府公認の医師たちが幕府に働きかけて外科以外の蘭方医を禁止してしまった。蘭方医たちは結束して「お玉が池種痘所」開設を幕府に願い出た。この中心人物が伊東玄朴で、名を連ねた蘭方医は32名、開設費用を負担したのは82名であった。安政5年に開設された種痘所は天然痘の予防接種を事業として実施するところであると同時にオランダ医学の教育機関であり、更には蘭学医たちの結束する集会所でもあった。幕府は種痘の効果を認識して種痘所を幕府直轄にし、1861年に西洋医学所と名を改め、医学所・大学東校を経て東京大学医学部へと繋がっていく。
 伊東玄朴が開いた蘭学塾は、西の適塾・東の象先堂と云われるほど蘭学を学ぶ人達の集まる所であった。一緒に幕府奥医師となった戸塚静海、坪井信道とともに西洋三大医家として称えられている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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